その日の朝

午前5時46分。        

その少し前、なぜか目が覚めた。
私も主人も。
ゴオーッという妙な音が聞こえてきたかと思ったら
いきなり下から突き上げられた。
そしてすぐに横揺れ。
縦揺れと横揺れがまざりあい
何がなんだかわからない激しい揺れになり
真上にある照明器具がグルグルと回転した。
千切れて落ちてこないかと不安になった。
箪笥に引っ掛けてあったラックが落下。
息子を抱き寄せ、お布団の中でじっとしていることしかできなかった。
いったいいつまでこの揺れは続くのかと怯えた。


その時間は本当に長く感じられた。
やっと揺れが治まると、主人がテレビをつけた。
でも、まだ何が起こったかの放送はなかった。


起き上がって振り向くと、キャスター付の家具が転がってきていて
部屋の入口を塞いでいた。
テーブルの上の物は床に転げ落ちていた。
キャスター付家具を動かした主人はすぐに上の階にいる両親の元へ向かった。
私は実家へ電話をかけた。
実家は木造の古い家屋。心配だった。
幸いにも母の元気な声が受話器の向こうから返ってきた。
ほっとした。


息子を抱いて上の階へ行くと、デスクの上にあったパソコンが
床に落ちていた。
当時のパソコンは大きくて重いもの。
それが簡単に転げ落ちていた。
義父の部屋は家具が横倒しになってやはり部屋の入口を塞いでいた。
ガラスが割れて散乱していたので、主人が来るなと注意した。
そのまま居間へ。
幸いにも居間も仏間も大丈夫だった。
やがてテレビでも報道が始まった。
神戸がひどい事になっているらしかった。


パジャマだったので、下の階へ着替えを取りに降りた。
階段を上がっている時、余震がきた。
バランスを崩して階段の壁に体をぶつける。


明るくなるにつれ、現状が伝えられだした。
食べたかなんだかわからない朝食をとり、保育所へ電話すると
やっているとの事だったので、とりあえず用意を整えて、
息子をつれて向かった。
その間にも数度の余震。
何人かの子供達が既に保育所に来ていた。
保母さんに息子を託すと急いで戻り事務所へ。
会社の前の道路は大勢の人が歩いていた。
ひたすら黙々と歩いていた。
電車が止まっていた為、歩いて会社へ向かう人達の姿だった。
それは異様な光景だった。


事務所もキッチンやトイレのタイルが割れる被害があった。
電車が止まっているので遅れると従業員から電話が入った。
でも、やがてその電話もつながりにくくなる。


ずっとテレビを事務所でもつけていた。
悲惨な状況がだんだんわかってくる。
保育所から電話がかかってきた。
今日の保育は中止が決まったとの事。
息子を迎えに行き、義母に託した。

この日はとうとうまともな業務はできなかった。
被災地域に近いお客様へ電話して安否を確認。
それが精一杯。
地震による被害の点検に来てほしいという、お客様からの電話が
2−3件あった為、従業員が向かった。
その仕事だけだったように記憶している。
はたと気がついて、妹達へ電話をかけた。
でも電話がつながらない。
公衆電話からかけるとかかった。
京都の妹も奈良の妹も家族ともども無事だった。


主人が神戸の親戚2軒に連絡を取ろうとした。
1軒は電話がつながり無事が確認された。
だが、もう1軒がつながらない。
3日後、主人が水や食料を詰め込んだリュックを背負い、
梅田から阪急電車に乗り込んだ。
電車内は超満員。
ギュウギュウ詰めの状態でとりあえず、西宮北口まで行き
そこから歩いた。
町の光景を見て、主人は声を失ったとの事。
ゴジラが通った後か?と思うくらい
家が潰れ、道が道でなくなっていた。
やたらとサイレンの音だけが虚しく響き
人々はただ、黙って歩いていた。


辿り着いた親戚の家は無事だった。
ただ、水道もガスも止まっていた。
水をとても喜ばれた。
従兄妹と車で近くの川へ向かい、川の水を汲んで
家まで運ぶのを手伝った。
トイレ用に使うとのことだった。


大阪へ戻った主人が体調を崩し倒れた。
熱が続き体がだるく、思うように動けない。
息子も体調を崩した。
私が息子を、義母が主人を病院に付き添って連れて行った。
息子は風邪だった。
けれども主人の方は笑えない状態だった。
1年もの長期に渡って治療が続くことになる。


忌々しい震災。
主人の健康を損ね、お客様の夢を打ち砕き、
その後の人生を狂わせた、にっくき震災。


あれから15年。
絶対忘れない。
忘れられるはずがない。


鎮魂の朝がくる。
6434の魂よ、安らかに…。