以前の私は、こうあらねばならないとか、こうしなければならないとか
ある種の呪縛みたいなものに縛られていた。
若かった私は自分の未熟さと情熱とに支えられながら突っ走っていたように思う。
ある場面では年上の顔色を伺い、意見を伺い、それに従う事を優先し
ある場面では自分の知識が正しいと思い込み、他者の気持ちを考えずにそれを優先させていた。
生理的に合わないものは避け、自分の意見が通らなかった事による不愉快な気持ちを押さえ込み、表面上は知らん顔して生きていた。
子供時代から、自分が人と違う事を、仲間外れにされる事で意識させられ、
それならばと、独りで読書にふけり、好きなことに没頭した。
その経験があったから、結婚後、夫の両親に認められない事によって
又、子供時代からの『変わり者』である自分を再認識する事になった。
その『変わり者』という呪縛にずっと縛られてきた。
私は変わり者なのだから、又世間とずれた事をしでかしてしまったのだろうか?
と、いつも不安になっていた。
最近、その気持ちが変わってきた。
変な呪縛に囚われる事に何の意味があるのだろう?
人はよく口にする。
「あの人は変わり者」だと。
たとえば
「あの人は御主人が亡くなった後、御主人の親戚と完全に縁を切ったそう。変わってるわ」とか
「あの人は仕事もせずにパチンコばかりしている。変わってるよね」とか
「あの人は男の癖に女の格好なんかして変な人」とかいうように。
でも、思う。
そう言っている当の本人だって、きっと、どこか他人とは違う所、変わっている所があるはず。
どこか悪意の感じられるその言葉の裏側には、羨ましいという気持ちがあるように感じられる。
人と違うからこそ、その人なのだと思う。
どこか人と違っている所があったって
それが犯罪ではなく、人の命を脅かすような事もないのならば
本人が楽しければ別にいいじゃない、と思う。
本人にとって、それが一番自然体で楽な生き方ならば、それでいいと思う。
だから、自分も許してあげようと思った。
絶対こうしなければならないと、自分を縛ることをやめようと思った。
いや、やめようと意識して思ったわけではなく、
なんとなく気がついたら、呪縛から開放されていた、そんな感じになっていた。
それもこれもブログやTwitterで知り合った方々から、いろんな刺激を受け
学ぶことが出来たおかげだと思う。
日々感謝の気持ち…。